はじめての宗教論 左巻 -第3章 神学入門1 その2-

キミドリ

2011年10月12日 08:06



第3章キリスト教神学入門①知の全体像をつかむために
霊と魂の違い
知識を驕るな!
神学者の定義
キリスト教の職業倫理
神学者に要求される知識量とは?
才能は社会のために使え!
読書力から語学力まで
「批判」の正確なニュアンス
伝承にこだわると馬鹿になる
ダメ教会を見分ける
神学は「時代の哲学」を身にまとう
歴史は発展する―シュライエルマッハーの近代主義
すべては救済に関係づけられる
「パントブドウ酒」は何を意味するのか
実態変質説の様々な解釈
国家論としての「神学通論」



霊と魂の違い
 シュライエルマッハーによると、肉体と魂は意志でつながっている。
霊と魂の違いは個性に関係するのは魂で、そうでない場合は霊である。

知識を驕るな!
神学者の定義

 キリスト教への関心があるから知識がついてくる、知識がついてくるとキリスト教への関心が強まっていくと両者の弁証法的な関係があると述べる。
 これはスコラ学のアムンセルス以降の弁証法的な考えである.
 それをうけて、<最高度の宗教的関心と学的精神とが、しかもできる限り平衡を保って、理論と実践のために一致している場合>こそが、<教会指導者の理想的な姿である>としている。
 この平衡を保つ、とは学問的訓練を受けていない大多数の一般信徒と、訓練を受けている知的能力の高いごく一部の人たちの間でバランスを取らないといけない。特に後者にむけて理屈だけで信仰の問題がわかるな、知識を驕って一般信徒をバカにしてはいけない、と説いている。

キリスト教の職業倫理
 神学者になるにも牧師になるにも内的な形での召命感がないとやってはいけない。
 「召命」とは特定の使命を果たすように神から呼びかけられることで、ドイツ語ではベルーフ(天職)である。

神学者に要求される知識量とは?
 神学に要求される知識量は膨大であり、一生かかっても特定の分野ですら極めるのは難しい。しかし、救済につながることにはきわめて積極的に取り組む人が多く神学者は知的好奇心の強い人が多い。

才能は社会のために使え!
 ひとりの神学者の卵が何を学ぶかを決めるにあたって、彼の才能はベルーフであり神から授けられたものだから、個人的な知的関心や金儲けのために使ってはいけない。社会のために使わないといけない。

読書力から語学力まで
 神学者に求められる資質とは、その時代の聖書神学・歴史神学・組織神学・実践神学のそれぞれ肝となっている問題点を把握し、救済という観点からどういう意味合いを持つかを理解している。そして、それを成し遂げる手段として、読書力(ブックレビューする力)、論理学、歴史の知識、語学力が必要である。

「批判」の正確なニュアンス
 批判とはよいも悪いも含めて、対象をよく吟味することである。

伝承にこだわると馬鹿になる
 伝承的なことにのみ拘泥すると頭が悪くなる。学問とは、だらだら書かれていることの本質をぎゅっと縮めて提示すること。これこそが批判的な作業である。このように少しづつ厳密に詰めていくことでヨーロッパの知的な体系に近づくことができる。
根本的なことばの意味をつめないで議論するから、同じことばでみアナ違うことをイメージしてしまう。それでもなんとなく判った気になってしまうからほとんどの議論が空中戦となり、徒労におわる。

ダメ教会を見分ける
 そこにいったとしても、救われたと思えないなら、その教会に行かなくてもよい。

神学は「時代の哲学」を身にまとう
 その時代における哲学的な表現を神学が利用することは経験的によく見られる。

歴史は発展する―シュライエルマッハーの近代主義
 現在は過去の蓄積からなっている。それと同時に将来何をするかという未来からの圧力も加わっている。その中において永遠の今として、今のこの瞬間があるという考え方。
 シュライエルマッハーは歴史進学主導の考え方をしている。歴史の発展とともにわれわれは進歩して、いつかは完成に向かうとしている。

すべては救済に関係づけられる
 ところが、紅斑で通常の歴史神学に対して倫理学の学習が先行されるとする。
 なぜか?それは救済という観点に即した決断をしてくことが倫理である。だから、倫理学的な関心が常に歴史神学に先行する。
 神学研究の本質は、個々人の人間の救済、具体的な人間の救済であって、人類全体という抽象的なものではない。 

「パンとブドウ酒」は何を意味するのか
実体変質説の様々な解釈

 パンとぶどう酒は象徴であるが、そのもとでキリスト教が何を行ってきたかを知ることが重要である。
 実体変質説ではパンはぶどう酒は、ミサを経て本当にキリストの体と血に変わってる、とする考え方から、単に象徴であると捉える考えなど、プロテスタント内でも意見が分かれる。

国家論としての「神学通論」
 シュライエルマッハーの神学通論は、「教会」を「国家」に置き換えると国家論として読み直すことができる。彼の著作は過剰な解釈を可能にする。


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