はじめての宗教論 左巻 -第2章 宗教とナショナリズム-

キミドリ

2011年10月07日 07:00



第2章 宗教はなぜナショナリズムと結びつくのか?
知的体系としての錬金術
魔術と啓示
カネ―とナショナリズムー二つの主流宗教
民族の揺籃となったカレル大学
教皇庁の堕落
道具主義の考え方
「想像の共同体」と尖閣諸島沖問題
ケドゥーリーの批判的考察
神は民族に受肉する?
同胞意識と排他性
死をも肯定するナショナリズムへ


知的体系としての錬金術
 錬金術とは、何らかの作業を行って、いくつかの条件が重なることによって必ずひとつの結果が出てくる。これは魔術の手法であり、基本的には近代自然科学の手法と同一である。錬金術はと近代以前の一大知的体系であった。

魔術と啓示
 現代の金融工学なども考え方の基本に錬金術がある。何らかの操作を加え、自分の資産の価値を増殖させている。
 それに対し、宗教的な啓示はそれとは全く異なり、啓示には規則性がなく突然降りてきて、人間の実存自体を破壊してしまう力がある。それに対して、拒否するか従うかしかないというのがキリスト教の基本的な考え方である。

カネ―とナショナリズムー二つの主流宗教
 シュライエルマッハーは宗教の本質を「直感と感情」と定義し、晩年には「絶対依存の感情」とした。
 近代的人間は心は内側にあると考えた。内なる両親の声と神の声に差がなくなり、主観的心理と神の啓示も原理的には区別できなくなり、啓示と願望を混同する危険性が生じた。
 キリスト教的な人間観では、人間は本質において超越的なものに憧れ、自己同一化していく存在である。たとえ、自分は無宗教者だと定義しても、無宗教という宗教に過ぎない。
 また、最も主流の宗教というのは、宗教としてではなく慣習として意識されるのが常である。現代においては「拝金教」と近代におけるナショナリズムのふたつがある。
 また、民族についても原初主義と道具主義の二つがある。
 前者の原初主義は日本民族なら2600年続いている、中国なら5000年続いているといったような各民族が固有の言語や土地、経済に基づいているという考え方である。
しかし、実証的な歴史学においては全くナンセンスである、とされている。民族というのはきわめて近代的な現象でフランス革命以降に世界に広がり、長く見積もって250年くらいしかない。

民族の揺籃となったカレル大学
 民族(nation)の原型はラテン語のナチオ(natio)である。これはかつて大学にいあった。中世期の大学はそもそも徒弟制のギルドであった。大体各大学に4つのナチオがあった。ナチオとは「国民団」などと訳されるが「郷土会」がより正しい。
 民族の原型となったのはプラハのカレル大学のナチオであった。ここにはボヘミア、ザクセン、バイエルン、ポーランドのよつのナチオがあり、ボヘミアだけがチェコ語を話し、他はすべてドイツ語であった。
 ナチオが政治的意味を持つようになったのは15世紀のフス派の反乱からである。それまでのナチオは出身地を一緒にするだけのサークルであった。大学の授業はラテン語で行われたが、サークルの中ではお国言葉が話されていた。同じ言語を話す人たちの間にひとつのコミュニケーション体系、文化ができてきて、それぞれのサークルで情報の集積量が変わってくる。そのため、民族が生まれるときの言語の役割が強い。
 15世紀にフス派は清廉な生活と財産の公平分配をカトリックに対して、主張した。当時ボヘミアは派非常に豊かであり、その経済力と新しい軍事技術に支えられ、カトリックに全線全勝していった。
 こうして、民族のアイデンティティとチェコ語という言語、フス派の宗教改革とが結びつき、民族と国家の一致を是とする国民国家、ネイション・ステートの考え方の基本が生まれた。
 このフス派の反乱が原基形態が、似たような出来事が繰り返し起こり、徐々にドイツやフランスなどの民族が煮詰まり、その集大成が1789年のフランス革命であった。
 
教皇庁の堕落
 このころ、カトリックの教皇庁の堕落はひどく、兵を雇って戦争をし、贖宥状をうって大もうけをしていた。これを見て、フスはローマ教皇は天国の鍵を持ってはいないと断じた。

道具主義の考え方
 道具主義とは、エリート層が自分たちのポストを維持するために大衆を操作することで民族が創られる、という考え方。目的のために道具としてナショナリズムを利用していく。ナショナリズムが先行して国民国家が生まれてくる。
 この考え方には、ベネディクト・アンダーソンの「想像の共同体 ―ナショナリズムの起源と流行―」に詳しい。
 出版資本主義では世俗語で書かれた書物で金儲けをする。その結果、世俗語で書かれたその書物を読む読書人たちを中心とする、情報を共有するひとつのグループが出来上がる。それによって、世俗語を単位としてある人々と別の人々という区分ができ、このような区分がナショナリズムの起源と考えた。
 このようなアンダーソンの考え方では民族とは想像された政治的共同体、すなわち想像上の存在となる。
 このようにして出来上がった国家の特徴を、アンダーソンは「主権的であること」と捉える。すなわち、国家が国民に一方的に強制できる。つまり、徴兵と徴税ができる。
 もうひとり、道具主義の主要な論客にアーネスト・ゲルナーがいる。彼は産業資本主義と民族と国家というのは一種の三位一体的な関係にある。

「想像の共同体」と尖閣諸島沖問題
 このような道具主義的な考え方から見ると、さきごろおこった尖閣諸島沖問題もみえてくる。この問題の背後には中国が現在、本格的に近代化が進み、それに伴い国民国家的なものの建設(ネイション・ビルディング)が行われていることがある。
 ネイション・ビルディングには「敵のイメージ」が不可欠である。敵に対抗することで「われわれ」が一丸となる。中国にとって、日本は敵のイメージを担っている。
 これは中国の近代が終焉を迎えるまで続くだろう。

ケドゥーリーの批判的考察
 エリー・ケドゥーリーはナショナリストとしてのシュライエルマッハーの側面を非難した。
 シュライエルマッハーは神の場を人間の内部に定義することによって、内部と外部を混同し、啓示と願望を混同する危険性が生じた。
 われわれは心の中に神の声が聞こえるから、断固自分の信じる道を行け、ということになる。
 それが、<政治的行動への真の指針とみなされるようになった>結果、第一次世界大戦という大量殺戮がもたらされたとした。

神は民族に受肉する?
 では、シュライエルマッハーとナショナリズムはどうのように結びつくのか??
 その考え方の基礎に「受肉論」がある。「受肉論」とは神と人間をつなぐ媒介項として、「真の神で真の人」であるイエス・キリストが出現した。天上の神がイエス・キリストという人間になること、それが受肉である。
 シュライエルマッハーの考え方を受肉論に基づいてみてみる。
 心の中にある絶対依存の感情が、歴史において受肉して、具体的な形をとる。それこそが民族(ネイション)であり、国家(ステート)であり、両者が一体となった国民国家(ネイション・ステート)という形態である。このようにして、ひとつの言語、ひとつの民族、ひとつの国家という近代のネイションステート的発想が固まっていく。
 なぜ、こうなってしまったかというと、受肉論に輪廻転生の考え方が混じったからだと考えられる。シュライエルマッハーはプラトンの翻訳も行った。その過程で、神秘主義的なネオプラトニズムが混じった可能性がある。
 シュライエルマッハーの一番の問題点は、イエス・キリストという固有名詞が希薄になってしまったことである。

同胞意識と排他性
 国家が外国人の王朝によって征服されることに対する強い反発によって同法意識が生じてくる。ここでベネディクト・アンダーソンが言うところの公定ナショナリズムが生まれる。それを操作して、支配者層が自分たちは民族=国民の代表者であるという表彰をうまく作り上げ、下で生じた同朋意識をうまくまとめる。その結果、敵のイメージを担う「外国人」たちは排除されることとなる。

死をも肯定するナショナリズムへ
 ナショナリズムは不完全な世界から離れ、内部に目を向ける。現実世界に対するこのような軽蔑は究極的には生への拒絶と死への愛となる。
 <外部から何の支えも必要としない心の底からの確信>によって、人間の自己絶対化を規制する枠がなくなってしまい、上記のナショナリズムの歯止めが利かなくなってしまい大量殺戮の戦争へと至った。

 神の場が内部に転換することで、神の声と内なる良心とに区別がつかなくなり、自らの願望と啓示が混同されてしまった。そこに、ネイションへの信仰が結びつくと、あからさまなナショナリズムや死への信仰が生じることとなった。 


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