第1章 近代とともにキリスト教はどう変わったのか?
<目次>
ソ連の無神論教育
ドイツにおける全集の作り方
形而上と形而下
「直観と感情」のインパクト
宗教と道徳はおなじものか
カトリックの教義とプロテスタントの教義
教義・教理・思想
道徳の危険性
プロメテウスは何を象徴するのか
エンサイクロペディアの含意
趣味としての宗教?
外部と内部の混同
ソ連の無神論教育
ソ連では農民を飛行機に乗せて、雲の上を見せ「空の上に神がいない」と言う事を証明しようとした。一部では影響力を持ったが長くは続かなかった。
ドイツにおける全集の作り方
シュライエルマッハーの全集が出始めているが我々の生きているうちには完成しないと思われる。重要な人物は200年くらいかけ、特別に編集スタッフを一から養成しノウハウを引き継いで作っていく。
形而上と形而下
[宗教の根本定義。それは宇宙の直感と感情。かくして、それは形而上学と道徳と相並ぶところの人間精神の本質的必然的第三者。]/これを以て、宗教はその財産を占有せんがためには、形而上学や道徳に属するものにたいするあらゆる要求を断念し、宗教に押しつけてあるものはすべてこれに返却する。宗教は、形而上学のように宇宙をその性質に従って規定しかつ説明しようとは欲しないし、道徳のように自由の力、および人間の心的自由意思から宇宙を発展させ、かつ完成させようとは欲しない。宗教の本質は、思惟でも行為でもなく、直感と感情である。(シュライエルマッヘル「宗教論」佐野勝也、石井次郎訳 岩波文庫、1949年)
最後の「直観」と「感情」がキーワード。
シュライエルマッハーは別の著書で、宗教は<形而上学と道徳とに対立する>としている。
まず、「形而学上」とはなにか。「有形の器すなわち自然の形象を超えた無形の道すなわち原理の学の意」である。これはもともとアリストテレスの考え方に由来し、それが神学に入り込んで形而上学となった。そして、アリストテレスの体系を使いながらキリスト教について説明するようになった。
反対は「形而下」だがこれは我々の住んでいる世界の現象の事をさし、通例「自然学」とよばれる。
「直観と感情」のインパクト
それでは、形而上学的に考えると神はどこにいることになるのか?
雲も月も突き抜けたずっと「上」である。
しかし、コペルニクス革命によって天動説が地動説にパラダイムシフトし、形而上学的な神様では都合が悪くなった。
つまり、上にあるとされた神の居場所が天動説から地動説に代わることで物理的に証明できなくなった。そのときにシュライエルマッハーは感情と直観という形で神の居場所を人間の心の中に定義しなおした。
形而上学的な世界観のもとで、神と宇宙像が完全に二元化してしまった(神の居場所と宇宙が完全に分離した)。
宗教と道徳はおなじものか
宗教は道徳に対立する、とされた。
道徳は「一般的に正しいとされる考え」で、倫理は「自分がこうあるべきだという考え」のことである。
なおシュライエルマッハーはこの時、カントを念頭に置いている。カントにとっては神と道徳は同じものである。道徳的に正しいことをしていれば、それは神の道に適うという事になってしまい、宗教と道徳が同じになってしまい、それは神学的にはよろしくない。
なぜ一緒にしてはいけないのか、というと、人間と神を同一視することになってしまうからである。これは自己神格化といい、キリスト教では絶対に認められない事である。
このように自己神格化につながるため、シュライエルマッハーは宗教と道徳の混同を拒否した。
カトリックの教義とプロテスタントの教義
カトリックには神の啓示を形にした教義(ドクトリン。数学でいう公理系)があり、それに基づいているからローマ教皇は信仰と道徳について不可謬性がある、とされる。
一方、プロテスタントの教義は結論から言うとそれはわからない。イエスキリストが救い主である、と言う事ぐらいである。
教義・教理・思想
教義:ゆるぎない真理
教理:それぞれの教会が正しいと思っていること
キリスト教思想:神学者たちが教会の立場とは別にもつ自分の考え
となる。
道徳の危険性
プロメテウスは何を象徴するのか
エンサイクロペディアの含意
趣味としての宗教?
シュライエルマッハーによると、宗教の本質は、思惟(形而上学)でもない、行為(道徳)でもない。ではなにかというと、それは直観と感情であるという。
そして、その直観と感情は外側からもたらされる、とした。
一方、道徳は自由意識から出発し、人間が正しいと思うことによって自然界を克服し、外へと拡張していくという考え方である。
シュライエルマッハーは「宗教なくして思索と実践とを所有しようとするのは大胆なる傲慢である」、とし、それらをプロメテウス的な不遜であると戒めた。
彼は宗教、形而上学(思索)、道徳(実践)の三者併存の世界を考えていた。
そして、宗教は「趣味」つまり、他人に押し付けることができない、とした。
外部と内部の混同
シュライエルマッハーの「宗教論」では宗教の定義は「直観と感情」であったが、晩年にあるとこれが「絶対依存への感情」へと変化する。
前者ではまだしも外部性が保たれていたが、後者では「絶対」と「依存」、そして「感情」が結び付くことで、神の場は完全に人間の自己意識の中に封じ込められてしまう。
つまり、外部と内部が混同され、人間は宇宙を直感でとらえる力を主体的にもっているという形になってきた。そうすると人間の主観と宇宙を総べる意志の違いはなくなってしまい、我々は神というリアルな感覚を持てなくなってしまった。