最近読んで一番、感心した本。
自分の勉強も兼ねて要約してみました。
<目次>
序章 「見える世界」と「見えない世界」-なぜ宗教について考えるのか?
第1章 宗教と政治-神話はいかに作られるのか?
第2章 聖書の正しい読み方-何のために神学を学ぶのか?
第3章 プネウマとプシュケー
第4章 キリスト教と国家-啓示とは何か?
第5章 人間と原罪-現代人に要請される倫理とは?
第6章 宗教と類型-日本人にとって神学とは何か?
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序章「見える世界」と「見えない世界」-なぜ宗教について考えるのか?
<目次>
宗教と名乗らない宗教
なぜ怨霊は怖がられたのか
すべてがカネに還元される社会
プレモダンの考え方とは?
欧米人の深層心理に潜む「コルプス・クリスティアヌム」
なぜ日本人は、欧米人と腹を割った話し合いができないのか
超越性の落ち着き先
宗教とは何か-暫定的定義
右巻のあらまし
<要約>
なぜ、いま宗教を扱うのか。
宗教とは「見える世界」と「見えない世界」を結び付ける特徴がある。
近代は「見える世界」が中心になった。
近代は「見える世界」を重視するがそれを象徴するのが商品経済である。
それはすべてをカネという「見えるもの」へ換算するような社会に生きている。
しかし「見えない世界」がなくなったわけではない。現代人は「見えない世界」を考えることが苦手になり、現代には宗教と名乗らない宗教(自己啓発、マルチ販売)に引っかかってしまう人はあとをたたない。
いっぽう「見えない世界」を大きく扱ってきたのは近代以前の中世である。いまは、この中世(“プレモダン”)の研究が盛んである。
中世哲学の専門家である山下志朗は、以下のように述べている。
中世哲学は<見えるもの>を通して<見えざるもの>に至ろうとする傾向が主流である。<見えざるもの>は認識できないのでなくて、「鏡の中に見るごとく、謎において」見えている。しかし、必ずしもおぼろにしか見えないからといって、否定的に扱われるのでなく
そのようにしか人間は無限なものを認識できない以上、その構成を吟味して、「鏡」というのは自分自身の精神の事なのだ、という有力なモチーフも登場してくる。
現代は主体と客体を分け、生きている人間を中心とした(ヒューマニズム)「ヨーロッパ」の考え方が主流である。
これはこのユダヤ・キリスト教の一神教の伝統と、ギリシャ古典哲学、ローマ法の3つの要素から構成された総合体を「コルプス・クリテイアヌム(キリスト教共同体)」である。
人間中心主義は生きている人間を起点とするため死に伴う超越性の問題が消えてしまう。しかし、人間が死を回避することはできず、超越性の代替物が入り込んでくる。
現代はこの「代替物」としてナショナリズムが宗教に代わる超越的な力を持っている。