2010年09月01日
「公開読書」で「プロ倫」を読む。
マックス・ウェーバー著 「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神(略してプロ倫)」
まずは、さらっと軽く著書の紹介を。
マックス・ウェーバーってどんなヒト??
マックス・ウェーバーは1864年、マルクスがなくなった翌年に出生。母はそれこそ敬虔なプロテスタント。
内気で内向的、繊細で早熟な天才少年で12歳でマキャベリを読んでいたそうな。
大学卒業後、兵役につきその後28歳の若さで大学講師となる。
が、父親と激しい喧嘩のあと、仲を修復することなく、父親が一ヵ月後に旅先で客死する。そのことを契機に精神を病み、長らく現場を離れる。
長期療養もかねてイタリアへの旅行を繰り返して復帰した彼は、1904年にプロ倫を書き、1910年に現場復帰をしたが1920年に56歳で没。
彼自身は社会学の祖といわれる。
彼自身著作に対するモチベーションはとしては、「なぜ『近代』という時代が生まれたのか。」、「なぜ『合理性』が重んじられるようになったか」の探求と思われる。
あとでも問題として、出てくるけどプロ倫自体は、データの蓄積に基づいて出された結果、というより彼の恣意的なケースレポートに近いんじゃないか、という批判もある。
後世の批評も含め、講義は始まった。
=========================
近代初期、経済的に発達した地域はプロテスタントが多く見受けられる。
それは、資本主義がプロテスタントの宗教的な教義と合致しているからではないか?
しかし、
疑問その1:禁欲を旨とするプロテスタントの教義と、世俗的な欲望を肯定する資本主義とはそもそも相容れないのでは??
疑問その2:中世では「金銭を稼ぐこと」とは「卑しいこと」とされたのに、なぜ近代に入ってそれが賞賛されるorみんなが目指すべき方向とされたのか??
どこで、転換点が来たのか??
それは、ルターの宗教改革ではないか??
ルターが「ベルーフ:(ドイツ語、使命としての職業)」という意味を広く喧伝したためではないか。
それにより、修道院内だけで行われていた「救済」の事業は世俗内の「就労」という活動の中に求められることとなった。
ここで、疑問その2はクリアされる。金銭を求める活動は忌むべきことではなく「救済」への道、ということになる。
さらに、これを推し進めたのはカルヴァンはの「予定説(あらかじめ、救われるものと救われないものは決まっているという教義)」。
予定説に従えば、人間が世俗でいかな行いをなそうとも神の決定である救済は覆せない。では、どうすれば、この絶望的で孤独な状況をのりこえられるか??
結局、「自分は救済されるのだ」という確信に基づき日々行動するしかない。
それには個人の感情面ではなく、「神の意にかなった」ことである職業を全うして、個々人としてではなく組織だって「働き」社会を豊かにするで、ことであった。
しかし、近代に入り資本主義の仕組み自体だけ出回り始めると、初期の資本主義を支えた「禁欲」の精神は形骸化した。
近代の初期を支えた「禁欲」の精神が形骸化するにつれて、「奢侈」がのさばってくる。初期のころは「稼ぐ」のがメインの目的であったのが徐々に「使う」へとシフトされてくる。
そしてこの「使う」ために「稼がなければならない」という強迫的な循環を有する仕組みが生まれる。
ここで疑問1の答えが出てくる。相容れる、入れないの問題ではなく、初期には確かに「禁欲」がメインであったがそれは徐々になくなり、「資本主義」は今現在、我々が目にする「欲望の肯定」の姿になった。
その仕組みだけがいまやひとりあるきし、それにわれわれは圧殺されている。
===========================
後世のヒトはウェーバーをどう見てるか??(キミドリ脳内翻訳Ver)
・池田信夫氏のブログ「姜尚中氏の通俗的ウェーバー論」
http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/2008-07.html?p=3
近代資本主義を生み出したのに、宗教改革が影響したのは事実だ。
でも、「プロ倫」は恣意的エピソード集に過ぎない。
・柄谷行人 「世界史の構造」より
べつにプロテスタントが根付いていない国(たとえば、日本)でも、資本主義は根付いているよ。
これは学校と軍隊での集団的訓練の成果だろ??
============================
実際の講義はマルクスの「唯物論」対ウェーバーの「唯心論」などの軸も織り交ぜられていました。
スーパーざっくり要点を言っちゃうと、
中世から近代に移り変わるに従って、プロテスタンティズムがパラダイムシフトの背中を押したんじゃね??
ってことです。たぶん。
けど、考察を重ねるにあたって別に統計的なデータも扱ってないし カルヴィニズムなど、私ですら「ホントかよ??」と思うような考察もあったりして、論としてはひじょーに粗い。(by 山納さん)。
これを「名著」としてどう評価するか、あるいは時代背景を考えると非常にセンセーショナルだったのか??どう読み解くかは個人しだいです。
といって勉強会は幕となりました。
まずは、さらっと軽く著書の紹介を。
マックス・ウェーバーってどんなヒト??
マックス・ウェーバーは1864年、マルクスがなくなった翌年に出生。母はそれこそ敬虔なプロテスタント。
内気で内向的、繊細で早熟な天才少年で12歳でマキャベリを読んでいたそうな。
大学卒業後、兵役につきその後28歳の若さで大学講師となる。
が、父親と激しい喧嘩のあと、仲を修復することなく、父親が一ヵ月後に旅先で客死する。そのことを契機に精神を病み、長らく現場を離れる。
長期療養もかねてイタリアへの旅行を繰り返して復帰した彼は、1904年にプロ倫を書き、1910年に現場復帰をしたが1920年に56歳で没。
彼自身は社会学の祖といわれる。
彼自身著作に対するモチベーションはとしては、「なぜ『近代』という時代が生まれたのか。」、「なぜ『合理性』が重んじられるようになったか」の探求と思われる。
あとでも問題として、出てくるけどプロ倫自体は、データの蓄積に基づいて出された結果、というより彼の恣意的なケースレポートに近いんじゃないか、という批判もある。
後世の批評も含め、講義は始まった。
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近代初期、経済的に発達した地域はプロテスタントが多く見受けられる。
それは、資本主義がプロテスタントの宗教的な教義と合致しているからではないか?
しかし、
疑問その1:禁欲を旨とするプロテスタントの教義と、世俗的な欲望を肯定する資本主義とはそもそも相容れないのでは??
疑問その2:中世では「金銭を稼ぐこと」とは「卑しいこと」とされたのに、なぜ近代に入ってそれが賞賛されるorみんなが目指すべき方向とされたのか??
どこで、転換点が来たのか??
それは、ルターの宗教改革ではないか??
ルターが「ベルーフ:(ドイツ語、使命としての職業)」という意味を広く喧伝したためではないか。
それにより、修道院内だけで行われていた「救済」の事業は世俗内の「就労」という活動の中に求められることとなった。
ここで、疑問その2はクリアされる。金銭を求める活動は忌むべきことではなく「救済」への道、ということになる。
さらに、これを推し進めたのはカルヴァンはの「予定説(あらかじめ、救われるものと救われないものは決まっているという教義)」。
予定説に従えば、人間が世俗でいかな行いをなそうとも神の決定である救済は覆せない。では、どうすれば、この絶望的で孤独な状況をのりこえられるか??
結局、「自分は救済されるのだ」という確信に基づき日々行動するしかない。
それには個人の感情面ではなく、「神の意にかなった」ことである職業を全うして、個々人としてではなく組織だって「働き」社会を豊かにするで、ことであった。
しかし、近代に入り資本主義の仕組み自体だけ出回り始めると、初期の資本主義を支えた「禁欲」の精神は形骸化した。
近代の初期を支えた「禁欲」の精神が形骸化するにつれて、「奢侈」がのさばってくる。初期のころは「稼ぐ」のがメインの目的であったのが徐々に「使う」へとシフトされてくる。
そしてこの「使う」ために「稼がなければならない」という強迫的な循環を有する仕組みが生まれる。
ここで疑問1の答えが出てくる。相容れる、入れないの問題ではなく、初期には確かに「禁欲」がメインであったがそれは徐々になくなり、「資本主義」は今現在、我々が目にする「欲望の肯定」の姿になった。
その仕組みだけがいまやひとりあるきし、それにわれわれは圧殺されている。
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後世のヒトはウェーバーをどう見てるか??(キミドリ脳内翻訳Ver)
・池田信夫氏のブログ「姜尚中氏の通俗的ウェーバー論」
http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/2008-07.html?p=3
近代資本主義を生み出したのに、宗教改革が影響したのは事実だ。
でも、「プロ倫」は恣意的エピソード集に過ぎない。
・柄谷行人 「世界史の構造」より
べつにプロテスタントが根付いていない国(たとえば、日本)でも、資本主義は根付いているよ。
これは学校と軍隊での集団的訓練の成果だろ??
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実際の講義はマルクスの「唯物論」対ウェーバーの「唯心論」などの軸も織り交ぜられていました。
スーパーざっくり要点を言っちゃうと、
中世から近代に移り変わるに従って、プロテスタンティズムがパラダイムシフトの背中を押したんじゃね??
ってことです。たぶん。
けど、考察を重ねるにあたって別に統計的なデータも扱ってないし カルヴィニズムなど、私ですら「ホントかよ??」と思うような考察もあったりして、論としてはひじょーに粗い。(by 山納さん)。
これを「名著」としてどう評価するか、あるいは時代背景を考えると非常にセンセーショナルだったのか??どう読み解くかは個人しだいです。
といって勉強会は幕となりました。
Posted by キミドリ at 08:40│Comments(2)
│読書
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この記事へのコメント
この間はお疲れ様でした。
すごくまとまってますね!
リンクさせていただくかも。
すごくまとまってますね!
リンクさせていただくかも。
Posted by やまのう at 2010年09月05日 07:54
おそくなりましたが・・・
コメントありがとうございます(^^)
またお邪魔します。
リンク大歓迎です!
コメントありがとうございます(^^)
またお邪魔します。
リンク大歓迎です!
Posted by キミドリ at 2010年09月07日 12:42