2012年01月28日
「星のささやき」を聴け。
いつもおせわになっているサイト「おそロシア」さんより。
シベリアの寒さがマジキチ過ぎてワラタw 外は-42℃、室内は-5℃で暖かい
http://osorussia.net/archives/67268324.html
-4℃→水道管凍結が始まる
-6℃→窓霜が始まる。サイダーが凍る
-10℃→ビールが凍る
-13℃→ブドウ酒が凍る
-14℃→清酒が凍る
-15℃→凍結で家が鳴る。ダイヤモンドダストが始まる
-20℃→顔を出して歩けない。眉毛・髭・前髪に霜が付く。地面が凍る「凍上」で木造の建物が壊れる
-24℃→醤油が凍る
-25℃→樹液の凍結により、生きた大木が立ったまま裂ける「凍裂」が始まる
-40℃→小鳥が凍死して落ちてくる。飛行機雲ならぬ「トラック雲」が発生する
-50℃→「星のささやき」(吐いた息がすぐに凍りつき、その時に聴こえる微かな音)が聴こえる
「星のささやき」
なんてロマンチック!
でも、聴くには根性がいるぜ!
コトバンクより
星のささやき:
屋外の気温が氷点下五〇℃以下になると、人の吐く息が耳のあたりで凍り、かすかな音をたてる。シベリア東部のヤクートでは、この音を“星のささやき”という。
http://kotobank.jp/word/%E6%98%9F%E3%81%AE%E3%81%95%E3%81...
ちなみにヤクート人が多く住むヤクーツクは世界で一番寒い街です。永久凍土の上に町がたち、そのなかに状態のよいマンモスの大腿骨がみつかったこともあります(たぶん、氷漬け)。
世界のダイアモンドの20%がここで発掘されるそうです。
やっぱ、寒いって半端ないわー
生存北限滋賀県の私にとって、想像するだけで脳みそが凍りそうです。
シベリアの寒さがマジキチ過ぎてワラタw 外は-42℃、室内は-5℃で暖かい
http://osorussia.net/archives/67268324.html
-4℃→水道管凍結が始まる
-6℃→窓霜が始まる。サイダーが凍る
-10℃→ビールが凍る
-13℃→ブドウ酒が凍る
-14℃→清酒が凍る
-15℃→凍結で家が鳴る。ダイヤモンドダストが始まる
-20℃→顔を出して歩けない。眉毛・髭・前髪に霜が付く。地面が凍る「凍上」で木造の建物が壊れる
-24℃→醤油が凍る
-25℃→樹液の凍結により、生きた大木が立ったまま裂ける「凍裂」が始まる
-40℃→小鳥が凍死して落ちてくる。飛行機雲ならぬ「トラック雲」が発生する
-50℃→「星のささやき」(吐いた息がすぐに凍りつき、その時に聴こえる微かな音)が聴こえる
「星のささやき」
なんてロマンチック!
でも、聴くには根性がいるぜ!
コトバンクより
星のささやき:
屋外の気温が氷点下五〇℃以下になると、人の吐く息が耳のあたりで凍り、かすかな音をたてる。シベリア東部のヤクートでは、この音を“星のささやき”という。
http://kotobank.jp/word/%E6%98%9F%E3%81%AE%E3%81%95%E3%81...
ちなみにヤクート人が多く住むヤクーツクは世界で一番寒い街です。永久凍土の上に町がたち、そのなかに状態のよいマンモスの大腿骨がみつかったこともあります(たぶん、氷漬け)。
世界のダイアモンドの20%がここで発掘されるそうです。
やっぱ、寒いって半端ないわー
生存北限滋賀県の私にとって、想像するだけで脳みそが凍りそうです。
2012年01月27日
松竹梅
松竹梅、とは日本ではめでたいことの意として使われますが、本来の意味は少し違ったようです。
もとは孔子の論語の「歳寒三友(松・竹・梅)(寒いときの友は松・竹・梅)のことだったそうです。
冬の厳しい寒さの中でも、常盤の緑を絶やさぬ松、雪の中でも育つ竹、そして一層薫り高く咲く梅の花。
それを思うようにいかない厳しい時代であっても支えてくれる、正直な友、親身な友、そして冷静に判断してくれる友のことを指し、転じて困難に負けない志の強い人を指す言葉になったそうです。
へー。
ソース↓
もとは孔子の論語の「歳寒三友(松・竹・梅)(寒いときの友は松・竹・梅)のことだったそうです。
冬の厳しい寒さの中でも、常盤の緑を絶やさぬ松、雪の中でも育つ竹、そして一層薫り高く咲く梅の花。
それを思うようにいかない厳しい時代であっても支えてくれる、正直な友、親身な友、そして冷静に判断してくれる友のことを指し、転じて困難に負けない志の強い人を指す言葉になったそうです。
へー。
ソース↓
2012年01月26日
2012年01月25日
2012年01月24日
【書評】感じる脳
最近の読了。
それよりの抜粋。
スピノザの思想に確かに神はいるが、人間的なイメージの、先見の明を有する神はいない。
スピノザの神は、われわれの感覚の前にある、すべてのものの根源であり、またあるものすべてである。神は無限の属性を持つ、原因のない永遠の実体である。実際上は、神は自然であり、生き物に最も明瞭にあらわれている。これは頻繁に引用される「神即自然」という表現によく言い表されている。スピノザの神は聖書で描かれているような形で人前に姿を現したことはない。スピノザの神には、祈ることもできない。
人はこの神を恐れる必要はない。なぜなら神が人を罰するようなことはないからだ。
また、神からの褒美を期待して勤勉である必要はない。
唯一恐れるものがあるとすれば、それは自分自身の行動だ。
もし、他人に優しくなければ、それはただちに自分自身を罰することであり、内なる平穏と喜びを実現する機会を直ちに自ら拒むことである。逆に他人に優しくしているとき、その人間には内なる平穏と喜びを即座に実現する多くの機会がある。だから人の行動は神を喜ばせることを目指すのではなく、神の本性と一致することを目指すべきである。そのようにすれば、何らかの幸福がもたらされ、何らかの救済が実現する。スピノザの言う「救済」-<サルース>-とは、健全な精神状態を累積的に助長する、繰り返される喜びに関することである。
いや、これ、脳科学の本なんですけどね。面白かったですよ。
まだ、何がどう面白かったか、説明できるほど消化はできてないんですけどね。
それよりの抜粋。
スピノザの思想に確かに神はいるが、人間的なイメージの、先見の明を有する神はいない。
スピノザの神は、われわれの感覚の前にある、すべてのものの根源であり、またあるものすべてである。神は無限の属性を持つ、原因のない永遠の実体である。実際上は、神は自然であり、生き物に最も明瞭にあらわれている。これは頻繁に引用される「神即自然」という表現によく言い表されている。スピノザの神は聖書で描かれているような形で人前に姿を現したことはない。スピノザの神には、祈ることもできない。
人はこの神を恐れる必要はない。なぜなら神が人を罰するようなことはないからだ。
また、神からの褒美を期待して勤勉である必要はない。
唯一恐れるものがあるとすれば、それは自分自身の行動だ。
もし、他人に優しくなければ、それはただちに自分自身を罰することであり、内なる平穏と喜びを実現する機会を直ちに自ら拒むことである。逆に他人に優しくしているとき、その人間には内なる平穏と喜びを即座に実現する多くの機会がある。だから人の行動は神を喜ばせることを目指すのではなく、神の本性と一致することを目指すべきである。そのようにすれば、何らかの幸福がもたらされ、何らかの救済が実現する。スピノザの言う「救済」-<サルース>-とは、健全な精神状態を累積的に助長する、繰り返される喜びに関することである。
いや、これ、脳科学の本なんですけどね。面白かったですよ。
まだ、何がどう面白かったか、説明できるほど消化はできてないんですけどね。

